ミュージック・ペンクラブ・ジャパン
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Classic Review

- 最新号 -

CONCERT Review

hitaruオペラプロジェクト
モーツァルト《ドン・ジョヴァンニ》
全2幕/イタリア語上演/日本語字幕付

2025/3/7 , 3/9の2回公演

出演者・キャスト
指揮/フォルテピアノ:園田隆一郎
演出:粟國淳
ドン・ジョヴァンニ:栗原峻希
騎士長:大塚博章
ドンナ・アンナ:針生美智子
ドン・オッターヴィオ:荏原孝弥
ドンナ・エルヴィーラ:倉岡陽都美
レポレッロ:岡元敦司
ツェルリーナ:髙橋茉椰
マゼット:粟野伶惟
合唱:hitaruオペラプロジェクト「ドン・ジョヴァンニ」合唱団
管弦楽:札幌交響楽団


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第1幕より

2023年2月に《フィガロの結婚》で第1回の開催に漕ぎ着けたhitaruオペラプロジェクトが《ドン・ジョヴァンニ》で第2回公演を実施した。2年前に伯爵夫人の「赦し」で幕を降ろした「夜」の暗がりからドン・ジョヴァンニのドラマが始まる。劇場に入ると、幕の下手最上部には、巨大な鎌を構えた死神が舞台を見下ろしている。かつて批評家の河上徹太郎がそう述べたように、ドン・ジョヴァンニは「死の背景の上に描かれた」物語である。冒頭の騎士長の「死」と最後のジョヴァンニの「死」が呼応し合いながら円環を形づくっている。その死の「地」から物語の諸要素が「図」として浮かび上がる。この「死神」はその構図を可視化したものであろう。幕が上がる前から期待に胸が躍る。

園田隆一郎の絶妙なドラマの牽引とオーケストラの快演

2年前のフィガロと比較しながらこのプロジェクトの進展を総括してみたい。まず大幅によくなったのは指揮者とオーケストラ。指揮は園田隆一郎で、オーケストラは第1回と同じ札幌交響楽団。園田は指揮とフォルテピアノを兼務し、個々の曲とレチタティーヴォの間の流れと適度な間合いを絶妙にコントロールした。序曲の後の第1曲の後半、ジョヴァンニとレポレッロのレチタティーヴォへ入るときに緊張感がまったく緩まない。そしてそこから3場への移行では即興的なアインガングを挿入し見事にドラマを牽引する。そして第2曲のアンナとオッターヴィオの二重唱が終わるところで音楽の呼吸はようやくひと区切りする。序曲からここまで音楽は二短調の枠組みを持つ大きなまとまりをなしている。園田はここまでをあたかも交響曲の1つの楽章のように聴かせた。客席からもそこで初めて拍手が起きた。ここまで聴いただけでさすが劇場仕込みのマエストロだと感銘を受けた。こうした音楽捌きのすべてに言及できないのは残念だが、園田の作品理解と的確な手綱が、最後までドラマを生きたものにした。

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第1幕フィナーレより

音楽面で特にオーケストラについて何点か挙げたい。まず第1幕フィナーレのメヌエットも素晴らしかった。ここは3/4のメヌエット、2/4のコントルダンス、3/8のドイツ舞曲の3種類の舞曲がすべて3/4拍子の土台の上で奏でられる。本当に天才的な書法だと溜息がでる。オケのバンダも3つの舞曲に合わせて3隊が設定されている。ここのバンダをまず最初の3/4のメヌエットを下手の奥に、次の2/4コントルダンスを上手手前に、最後の3/8ドイツ舞曲を下手手前に配置し、曲順に拍節感が変化してゆくのを視覚的にも明確に表現した。こういうのは実演ならではで、客席にいたほとんどの人がその仕掛けの妙を心ゆくまで堪能できたことだろう。

次に第2幕の第19曲の6重唱。ドン・ジョヴァンニではトランペットとティンパニが入っているが序曲と地獄落ち以外ではほとんど使われない。だが、この箇所では弱音指定で客席に聴こえないくらいの音量で微かに響く。ドンナ・アンナの悲痛な感情を一瞬で表現するためだ。ここのトランペットとティンパニのブッファのなかにミサ曲が混ざり込んだような響きも素晴らしかった。会場の空気が瞬時に変わったのを感じた。第2幕フィナーレの騎士長の亡霊に重ね合わせられるトロンボーンも絶大な効果を挙げていた。

反対に第1回のフィガロよりもやや劣ってしまった感があったのは声楽のアンサンブル楽曲。もちろん物語がアンサンブル中心に動くフィガロと個人のアリア中心に推移するドン・ジョヴァンニの違いもある。とはいえ、3人を除くソリストの基礎的な発声にやや難がありそれが声楽アンサンブルの成立を困難にしてしまった面は否めなかった。フィガロは伯爵夫人の赦しによって共同体が立ちあがる物語だった。それに対してドン・ジョヴァンニは罪人を屠ることで微かな共同性が立ちあがる。もともと個人はバラバラだった。アンサンブルのまとまりのなさは、そうした個人の離散をリアルに表現しているような不思議な感覚もあった。

光る髙橋茉椰の表現力

個々のソリストで見事だったのはなんといってもツェルリーナの髙橋茉椰。第7曲の二重唱の逡巡しつつもジョヴァンニに抗えない心の揺れ、アリア〈ぶってよマゼット〉での純真さ、そして2幕のアリア〈ごらんなさい、愛しい人〉では力関係が変化しマゼットを妖艶に手玉にとる。端正なディクション、音階にはまった音程の正確さ、清潔感のあるフレージング、技術的な面でも素晴らしかった。

次いでアンナの針生美智子。弱音の透明感と様式感はさすがであった。が年齢的なものもあるのだろう。フォルテが終始割れてしまったのは惜しかった。そしてジョヴァンニの栗原峻希も正確な歌唱で将来への期待感が大きい。イタリア語の発音の美しさも光った。ただ声楽的なレベルは高いものの、作品理解という点で疑問が残るところがあった。例えば第1幕のフィナーレで音楽がマエストーソに転じ作品を象徴する歌詞”Viva la libertà!”(自由万歳!)が最初に宣言される。そこでファンファーレのように4度上昇する音型が聴こえてこないなど、肝心な箇所がノーマークになっていると感じるところが少なくなかった。

合唱は第5曲で村人たちの素朴で生き生きとした表情をとても素直に表出しており、フィガロに引き続き良好だった。演出は粟國淳。粟國演出ではその第5曲に入るときに、舞台に農村を思わせる豊かな自然の幕が合唱の歌い手たちによって広げられ、村人たちがそこでの生活を謳歌している雰囲気をうまく出す。静的な邸宅と風を孕み躍動する幕がよい対比となっている。こうすることで絵柄だけではなく瞬間ごとに「空気感」が変わる。他の箇所でも同様に工夫されていた。

“赦し”を拒否し“快楽の自由”を求める主人公の生き方を強調

とはいえ演出では、なんといっても注目されるのは、フィガロとの比較で鍵になる「赦し」だろう。本作では赦しにかかわる場面が4度あるがそのいずれをもジョヴァンニは拒否する。赦しは最後まで成就しない。エルヴィーラの赦しを拒否した彼を赦すことができるのはもはや地上の人間ではない。彼自信が殺害したこの世界の「外部」の存在である。本公演で際立っていたのは、それさえ拒否するジョヴァンニの表現だろう。通常地獄落ちと言われるこのシーンではジョヴァンニは文字通り騎士長の霊によって地中へ引き摺り降ろされるか、壁面へ手繰り込まれる。だが、ここでジョヴァンニは舞台に組み上げられた段の最上部で深紅に染まり、死と同時に信念を貫徹する英雄像を打ち立ててみせる。

ドン・ジョヴァンニという人物は「今・ここ」の快楽以外何も信じていない。そこに信念な理念のようなものは存在しないかに見える。だが、自らの「安心・安全」や「生きながらえること」が脅かされても「卑怯者との咎は受けぬ」と宣言し命を賭して信念を貫く。そこで舞台最上部で深紅に染まったジョヴァンニは、死してなおどこにも「落ちない」。無節操なエロティシズムに翻弄される愚者から、その死の瞬間に、理念に殉じる英雄的な貴族精神が立ち上がってくる。ここに至ってViva la libertàの自由が「理念に殉じる自由」へと反転される。この演出には明確な意図があると思われる。ジョヴァンニによって人生を翻弄されたかに見えた他の人物たちは、実は彼によってかろうじて共同性へと繋ぎとめられていたのだ。しかもたんに「怒り」だけではない輝きをそこに予感していたのだろう。

ジョヴァンニという中心を失った終曲で残された人々は散り散りになる。ツェルリーナとマゼットは家へ帰ろうと、レポレッロは新しい主人を見つけようと、真面目なオッターヴィオはアンナの心中を察し1年待つ、と。この定型文のような味気なさは、本公演の舞台でもそのままに、文字通り離散するように幕引きとなった。凄まじい地獄落ちの後に乾いたハッピーエンドがやってくるようにモーツァルトは組み立てた。そしてそれを再現したのだろう。2年前にフィガロが幕を降ろした夜から始まったドン・ジョヴァンニは、理念に殉じる英雄を喪失したことで、あまり面白みこそないが、安定した市民社会の到来をたしかに感じさせた。そしてこの英雄の死による夜明けは「魔笛」の「朝」の予感を響かせている。だから、もし第3回hitaruオペラプロジェクトが「魔笛」によって幕を開けるとしたら、その清く正しい「朝」はどう表現されるだろうか。そんなことを夢想しながら会場を後にした。(※本レビューは縮約版です。筆者が主催する「さっぽろ劇場ジャーナル」の第11号(4月発行)に全文を掲載します。)

(多田圭介)

写真提供:札幌文化芸術劇場 hitaru(札幌市芸術文化財団) ©n-foto LLC

CONCERT Review

東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
第377回定期演奏会

ヴェルディ:レクイエム

指揮:高関 健
ソプラノ:中江早希
メゾ・ソプラノ:加納悦子
テノール:笛田博昭
バリトン:青山貴
合唱:東京シティ・フィル・コーア
合唱指揮:藤丸崇浩
コンサートマスター:荒井英治

2025年3月8日 東京オペラシティ コンサートホール


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コロナ禍で2021年3月の上演を断念し、再び定期演奏会で取り上げたヴェルディの「レクイエム」。ソリスト、合唱団を含め出演者は当時と同じ顔ぶれだ。常任指揮者の高関健は、プレトークで語っていたように1つ1つのフレーズに至るまで注意を払いながらも、テンポや強弱等を的確に指示しながら、この大曲を築き上げていた。4人のソリストたちも各人の持ち味を活かした歌唱を聴かせてくれた。東京シティ・フィル・コーアはほとんどの団員が暗譜で、丁寧なフレーシング、明確なスタッカート、強弱の対比等、アマチュアとは思えないほど細かく調整されていた。

ソリストの高いクオリティと迫力ある合唱

第1曲冒頭の合唱は静かに繊細に始められ、続く力強いアカペラの「Te decet hymnus(あなたにふさわしい賛歌が歌われ)」との対比が心地良かった。第2曲「Sequentia(続唱)」の「Dies irae(怒りの日)」は合唱とオーケストラの響きのバランスがやや崩れていたが、すぐに持ち直した。「Tuba mirum(驚くラッパが)」ではバンダのトランペットを含め金管楽器の柔らかい音が印象的。続く「Mors stupebit(死も自然も驚くだろう)」からは、ソリスト陣のソロと重唱が存分に楽しめた。まず、青山 貴(バリトン)ののびやかで良く響く声。「Liber scriptus(すべてを記した書物が)」のおだやかで落ち着きのある歌声の加納悦子(メゾ・ソプラノ)。笛田博昭(テノール)の情熱的な「Ingemisco(私は嘆息します)は、ややオペラ・アリア風すぎるきらいはあるが悪くない。「Quid sm miser(憐れな私は何と弁明すれば)」のソプラノの中江早希も加わった加納、笛田の三重唱、「Recordare(思い起こして下さい)」の中江と加納の2重唱、「Lacrimosa(涙の日)」の四重唱と合唱は、オペラさながらのアンサンブル。この重唱では加納の表現力の素晴らしさが印象的。「Offertorio(奉献唱)」、「Agnus Dei(神の小羊)」、「Lux aeterna(永遠の光で)」は、第2曲とは対照的な「静」の魅力を弦楽器群、木管楽器群、金管楽器群がそれぞれきれいな弱音で、ソリスト、合唱とともにその美しさを引き出していた。

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終曲「Libera me(私を解き放って下さい)」冒頭のソプラノのソロは、艶やかで凄みさえ感じさせる中江の表現力は驚異的。そして「Dies irae(怒りの日)」の旋律が回帰する箇所で合唱は、第2曲を凌ぐ迫力と激しさをみせ、続く二重フーガも言葉を際立たせながら、壮大に歌い上げた。静かに曲が閉じられると、長い沈黙のあとに盛大な拍手が沸き起こった。ヴェルディのレクイエムのオペラ的な側面、つまり旋律美とダイナミックな音響を十全に引き出した熱演であった。

(玉川友則)

写真:ⓒYukiko Koshima